高田純次の若い頃からの苦労の経歴は?適当男キャラと思えぬ壮絶な生い立ち!

高田純次の若い頃からの苦労の経歴は?適当男キャラと思えぬ壮絶な生い立ち!

俳優、コメディアンとしてテレビで活躍されている高田純次さん

御年77歳を迎えられた現在でも、イケオジな見た目とは裏腹にバラエティ番組に出演すれば、適当な発言で場を盛り上げる高田純次さんですが、現在の地位を築く前の若い頃は、とても苦労されていたことを知っていますか?

本業は「舞台俳優」(本人曰く)で、若い頃は劇団員として演劇に明け暮れ、役者で食べていけない時には、妻と娘を養うために、一般企業で働いていたこともあるようです。

また「平成の無責任男」と呼ばれる高田純次さんですが、生い立ちは壮絶で、今の明るいキャラクターからは考えられないような経験をされていました。

そこで今回は、

内容
  • 高田純次は若いころは苦労していた?経歴を紹介
  • テレビに出演することができた経緯とは?
  • 適当男はいつから言われるようになった?
  • 高田純次の壮絶な生い立ち

以上の内容を中心に紹介していきたいと思います。

目次

高田純次の若い頃からの苦労と経歴は?

高田純次
引用:ポパイ 2022/8

「ちい散歩」「ゆうゆう散歩」に続き、朝の三代目ゆるい散歩番組「じゅん散歩」でも、ベビーカーの赤ちゃんに「かわいいねぇ、お子さん高校生?」などと、一般人を相手にキレッキレのボケをぶちかましている高田純次さん。

77歳の今でも抜群に面白い高田純次さんですが、若いころにはとても苦労されていたことをご存じでしょうか?

ここでは、若いころの高田純次さんの経歴について紹介していきたいと思います。

若い頃から美術好きで神童?

高田純次さんは若いころから美術が大好きだったことを明かしています。

「じゅん散歩」ではすっかりおなじみとなった番組中で描いてきた街の風景画からも、絵を描く才能があることはよくわかります。

高田純次が描いた風景画
高田純次が描いた絵
引用:テレ朝POST じゅん散歩で高田純次が描いた風景画

美術が得意だった高田純次さんですが、小・中学校のころは、近所でも評判の「勉強ができる純ちゃん」でもあったそうです。

神童というのは言い過ぎだけど、成績は抜群に良かった。父は大手企業のサラリーマンで、自分もいい大学を出て会社員になり、父のように地道に働くつもりだったんです。ところが、まず高校受験で第一志望に落ちて、高校3年生の時には大学を5つ受けたけど、これまたすべて落ちてしまってね。

サライ.jpから引用

ですが、「勉強ができる純ちゃん」も、高校受験、大学受験では挫折を味わったんですね。

そこで、一浪したのちに、絵が得意な高田純次さんは、グラフィックデザイナーになるために、美大を目指すことを決めました。

ただ、その後も苦難の連続で、、、

ところが10も大学を受けたのに、またまた全部落ちた。なまじ“勉強ができる純ちゃん”なんてチヤホヤされてきたから、ご近所への世間体が悪いのなんのって……。なんで一所懸命に受験勉強しているのに自分だけ受からないんだと、自暴自棄になりましたよ。アイビールックを身に纏い、ブックバンドで十字に結んだ教科書を持って、大学のキャンパスで女の子を口説くのが夢だったのに、それが叶わないという邪な理由もあったけどね(笑)。

サライ.jpから引用

その後、大学進学をあきらめ、御茶ノ水にある「東京デザイナー学院 グラフィックデザイン学科」へ進学することになりました。

主に印刷物のデザインを勉強をする学科だそうで、後にポスターを描くという依頼を受けたことで、人生が大きく変わります。

若い頃は劇団員!劇団時代の苦労やエピソードは?影響を受けた人物は?

高田純次の若い頃

サライ.jpから引用

東京デザイナー学院を卒業後、「就職したくはないけどお小遣いはほしい」という理由から、フリーターで生活していた高田純次さんですが、ある時転機が訪れます。

とある先輩から、このような頼み事をされた後に、チョイ役で舞台に出演することが決まったのです!

先輩に頼まれてある劇団のポスターを描くことになったんですよ。そしたら、『暇なら舞台にも出て』って誘われて、通行人の役をやることになったんです。もちろん、人手が足りないからってだけだったんだけど、考えてみれば、あれが俺の初舞台だな。

POPEYEから引用

その後、同じ先輩から「面白い舞台があるから」と言って、観に行ったのが「自由劇場」の「マクベス」でした。

自由劇場とは

1966年に演出家の串田和美さんと俳優の吉田日出子さんによって結成されたアングラ劇団の先駆的存在

POPEYEから引用

マクベスに出会ったことを「あれを見ちゃったのが運の尽きだね(笑)」と語る高田純次さん。

これは面白かったんですよね。小さいところで跳んだりはねたりして、もう圧倒されちゃって

引用:gooブログ 高田純次が「マクベス」を初めて見た感想

それから1年後、「自由劇場」が研究生を募集しているのを見て応募し、結果は見事合格!

そこで、のちに「東京乾電池」という劇団に入るきっかけとなる、柄本明さん、ベンガルさん、綾田俊樹さん、岩松了さんに出会いました。

ただし、劇団員の仕事だけでは食べて行けず、アルバイトをしながら、稽古に励んでいたそうです。

高田純次さんは、研究生として1年間務めた後、演出家の森田雄三さんやイッセー尾形さんと『うでくらべ』という劇団を立ち上げるために、自由劇場を辞めることになります。

しかし、この劇団はお客が入らず、高田純次さんは現在の奥さんと籍を入れた直後ということもあり、稼ぎを考えて芝居から足を洗うことを決断しました

若い頃は宝石営業とジュエリーデザイナーや肉体労働も!

高田純次のサラリーマン時代

スポニチから引用

劇団を辞め、高田純次さんがお金を稼ぐために選んだのは、宝石店の営業とジュエリーデザイナーでした!

まず、高田純次さんが「宝石鑑定士」を取るために学校へ通われたのがきっかけでした。

「宝石鑑定士というのを見つけたんですよ。何か面白そうだから取ってみようと学校に通い始めたんです。だけど、入って気づいたのは、宝石鑑定士って国家資格じゃないんですよ! 今で言えば、野菜ソムリエみたいなもの(笑)。もうがっかりしちゃって」

POPEYEから引用

その後、学校に「ジュエリーデザイナーを探しているという宝石店」が現れ、高田さんは学校からの推薦もあり、宝石店「トキモト」へ、宝石営業とジュエリーデザイナーの掛け持ちで入社しました。

3年ほど勤めたのち、高田さんは奥さんに内緒で会社を辞めてしまったのです。

その理由は、「たまたま東京乾電池を立ち上げた柄本明さんとベンガルさんに出会ってしまった」からでした。

「ある時、会社の受付の女の子を口説こうと、新宿の居酒屋に誘ったの。そこで劇団の研究生時代からの知り合いだった柄本(明)やベンガルたちにばったり再会してしまった。当時、彼らは『東京乾電池』という劇団を旗揚げしたばかりの頃でね。実は彼らから“一緒にやらないか”と誘われ、旗揚げ公演も観に行ったんです。でも、これが大コケで(笑)。当時は“サラリーマンになって正解だった”と女房に話していたんだけど、2回目の公演は大成功したという噂が聞こえてきて、そのタイミングで会ってしまった」

サライ.jpから引用

この出会いがきっかけで、高田さんは改めて芝居の道へ行くことを決断されます。

しかし、芝居の道に進んだことにより、人生は楽しくなったそうですが、サラリーマン時代に貯金していたお金はすぐに無くなり、4~50個ものアルバイトに明け暮れる日々が続いたそうです。

高田純次(東京乾電池)

当時の高田さんの一日のスケジュールは、昼の12時から夕方の6時まで劇団の稽古、そのあと7時から翌朝の6時まで工事現場の深夜バイトで働いて、その後、家に帰って3~4時間の睡眠をとってまた昼の稽古にむかうというもの。

Yahoo!ニュースから引用

こんな生活を送っていても、体はとても健康だったと語っています。

また、アルバイトの中で死にかけた経験もあるそうで

とある水道管の埋設工事の時、ツルハシで地下5mくらいまで穴を掘り、穴の底で作業をしていたんです。すると突然、頭上の土砂が崩れてきて、生き埋めになった。目の前が真っ暗になり、身動きもできない。必死にもがいて、何とか這い出せたんだけど、さすがに肝を冷やしましたね。それから女房と子どもの顔がチラつくようになって、すぐに危険な仕事からは足を洗いましたけど

サライ.jpから引用

高田純次の若い頃の経歴!テレビに進出の経緯は?

そんな危険な肉体労働から足を洗うため、劇団の柄本明さんの勧めで、テレビや舞台などの設営をする大道具の仕事に転身されます。

お金はギリギリでも、毎日楽しく生活していた高田さんですが、ついにテレビのレギュラー番組が決まります!

それは、「笑っていいとも!」の前身である「笑ってる場合ですよ!」に東京乾電池のメンバーと共に出演が決まったのです!

高田純次「笑ってる場合ですよ」
引用:Hopegenkiさん X 「笑ってる場合ですよ」の集合写真

ただ、「笑ってる場合ですよ!」にレギュラー出演する2日前まで、バイトはしていたそうですから、そのころはまだタレント一本では食べてはいけなかったんでしょうね。

レギュラー出演するようになってから、高田純次さんの顔と名前が覚えられて知名度が上がり、ドラマに出演したりと、徐々にテレビに出ることができるようになりました。

少しずつ顔が売れて、ドラマに出演したり、CMにも起用されたりして。がむしゃらにやっているうちに、気がつけばデビューから40年以上が経ったという感じです。

サライ.jpから引用

そこから、ビートたけしさんの「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」にもレギュラーで出演する等、全国区のタレントとして売れていくことになります!

高田純次とたけしの関係とハチャメチャな伝説的エピソード5選

高田純次の出演した「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」
引用:株式会社CS日本 「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」

さて、高田純次さんがレギュラーとして出演していた「天才・たけしの元気が出るテレビ!」では、リポーター役の高田純次さんが、今のテレビでは到底できないようなことをされていた番組でもあります。

リポーターが、MCのたけしさんや松方弘樹さんと一緒にVTRを見るこの番組。

ウケているといいんですが、ウケないと居場所がなかったそうで「たけしさんが笑うか。それが問題だった。」と語っています。

高田純次の変装インタビュー

高田さんは、女装や妖怪に扮して一般の方にインタビューするのが恒例となっていました。

高田純次「たけしの元気が出るテレビ」
高田純次「たけしの元気が出るテレビ」
高田純次「たけしの元気が出るテレビ」
引用:youtube 

まもなく40の大台に乗ろうとするころ、女装や妖怪に扮するのは当たり前。まゆ毛、ヒゲ、そばかす、目までを顔面中に落書きして、そのまま町を歩きまわり、インタビュー。どっきり企画を仕掛けたり、ジェットコースターに乗車することもあった。

リアルライブから引用

まさに今の芸風?を確立したのがこの変装インタビューでしたね。

早朝バズーカ

まず、「天才・たけしの元気が出るテレビ!」で一番有名なのは、「早朝バズーカー」ではないでしょうか。

これは、その名の通り、高田純次さんが寝ている芸能人の家やホテルの部屋に忍び込み、枕の側で思い切りバズーカーをぶっ放してドッキリを仕掛けるというものです。

このバズーカーは、とても危ないものと思われるでしょうが、しっかりと安全面に考慮して作られていたのだそうですよ。

高田純次「たけしの元気が出るテレビ」
高田純次「たけしの元気が出るテレビ」

高田「あれは危ないのもあるからね。火薬は抑えてるの。音は後から付けてるの。音はするんだけど、もっと音を付けようってことなんだけど」

文化放送から引用

音は後から付け足されていたということで、これは、ビックリでした!

高田純次とオスマン・サンコン

オスマン・サンコンさんも早朝バズーカの被害者の一人で、「朝6時半の新幹線に乗る予定だったから、1時か2時くらいに寝たら、バズーカ3時に来たんだよ! 」と、ほんとにきつかったと語っていました。

また、高田純次さんがオスマン・サンコンさんの家に深夜2時にいき、ラーメンを食べて帰る、という珍企画も。

高田純次のことを語るオスマン・サンコン

高田純次はわけわかんないの。だって夜中の2時に急にうち来て、「ラーメン食べたい」って言うんだもん。それで、自分で持ってきたラーメン勝手に食べたら、「じゃあ!」って帰っていって。ほんと迷惑、わけわからん! それは一生忘れないね(笑)。

文化放送から引用

これに関しては、高田純次さんは全く覚えていないそうで、たくさんの企画をやっている中の一つで、「プライベートだったら、完全にバカだよね」と語られています。

大女優の3000万の指輪を食す

また、この番組で伝説となったエピソードと言えば、「大女優・清川虹子のダイヤモンドの指輪を口に入れた」とんでもない芸ではないでしょうか。

大女優・清川虹子のダイヤモンドの指輪を口に入れた

大女優・清川虹子さん愛用のダイヤの指輪を鑑定中、匂いを嗅ぎはじめ、お口にパクッ。頬を数回たたかれると、あらかじめ口に含んでいたガムと一緒にダイヤを吐き出した

リアルライブから引用

この行動には、たけしさんの鋭いツッコミがあったり、スタジオは大爆笑とまさにいまだに語りつがれる伝説となりました。

実は、この話には裏話があり、高田純次さんはこの頃のことを「僕がノイローゼの時だぁ」と話しています。

番組の大物出演者にギャラが多く支払われる中、高田純次さんと兵頭ゆきさんだけ本当にギャラがもらえなくて、ロケばっかり入れてもらっていたそうです。

伝説があったのは、ちょうどこのころで、指輪を口の中に入れたのは、アドリブではなかったのだそう。

「最初ね、チラっと聞いたの。『高価な指輪だけど、口の中に入れちゃっていいから』。ディレクターも『好き放題にやっていいから』」

 だが高田本人は乗り気ではなかった。「人の付けた指輪、口の中に入れたら汚いじゃない? イヤだなと思ってさ」。実際にロケが終わった後には「気分悪いから口の中、ゆすぎましたよ」と話していた。

引用:東スポ ユーチューブチャンネル「関根勤チャンネル」での話から

高田純次とエンペラー吉田

この「天才・たけしの元気が出るテレビ!」は、芸能人だけでなく、一般人を巻き込んだ企画もありました。

その中でも、「エンペラー吉田」という人物は、お茶の間でも人気ものになるほどでした。

高田純次とエンペラー吉田
高田純次とエンペラー吉田
高田純次とエンペラー吉田

エンペラー吉田は、見た目はどこにでもいそうなおじいちゃん。いつも紺地に白のラインが入ったジャージを着ている。変わった特技などがあるわけではない。人柄は実直そのもので、どんな質問にも生真面目に答えてくれる。

だが力が入るあまり、必ずと言っていいほどしゃべると入れ歯が豪快に外れてしまう。むろん計算ではないが、そのあまりのタイミングのよさに思わず爆笑してしまう。

PRESIDENT onlineから引用

高田純次さんがとにかく、エンペラー吉田さんの入れ歯が外れるようなことばかりインタビューするので、二人がテレビに出てくるたびに大笑いしていた記憶があります。

たくさんの伝説を残し、現在の日本のバラエティを作ったと言われる「天才・たけしの元気が出るテレビ!」ですが、その元を作ったのは、たくさんの爪痕を残した高田純次さんと言っても過言ではないでしょう。

高田純次はCM「5時から男」で大人気!「平成の無責任男」

高田純次のCM

終業時間である5時(当時、企業の多くが17時を終業時間としていたため)になると元気になるサラリーマン、つまり仕事よりも遊びになるとイキイキするサラリーマンのことを指し、1988年の流行語大賞の大衆賞も受賞しました。

dヒッツから引用

数々の伝説を残し、高田純次という名前が知られるようになると、CMなどにも出演することが増えてきました。

テレビに出始めたとはいえ、まだまだ色んなアルバイトをしながら妻子を養うなど、渡り鳥のような生活をしていましたが、とあるCMに出演したことで、高田純次さんは一気に知名度が上がったのです。

そのCMとは、「グロンサン」というドリンク剤で、「5時から男」というCMのキャッチフレーズが高田さんにつけられたのです。

と、仕事よりも遊びに元気が出るサラリーマンが多かった時代に、このキャッチフレーズが高田純次さんにピッタリだったのでしょうね。

ちなみに、高田さんはこのほかにも、「平成の無責任男」や「芸能界一いい加減な男」とも呼ばれたそうです。

ただ、どちらも高田さん自身が付けたわけではないそうですよ。

高田純次の適当男キャラは何時から何故?60代?

高田純次

Yahoo!ニュースから引用

では、高田純次さんが適当男と呼ばれるようになったのはなぜなのでしょう?

そのきっかけは、高田さんが59歳の時に出した「適当論」(2006)という本が、内容も相まって売れたからだと、高田さんは仰っています。

精神科医の和田秀樹先生が、オレとの対談を通じて性格とか言動を分析するという内容で、この本がかなり売れたんだ。
オレ自身、売れたのは90%以上、和田先生の力だと思ってるけどね。ただ、本が売れたことで「高田純次=適当男」というイメージが定着したんだと思う。

だから、「適当男」はオレの60代以降のキャッチフレーズということになるね。そんなに昔から、そう呼ばれてきたわけではないんだ。

Yahoo!ニュースから引用

ちなみに、「適当」という言葉には「程度が程よいこと」という意味と「やり方がいいかげん」という意味があるのですが、適当男は後者の意味でとらえることができるでしょうか。

よくわからないな。オレ自身、「適当男」がどんな男かって、分析したこともないし、どれだけ分析しても最後までわからないんじゃないかな。

だから、人から「いつものように適当にしてください」と言われるとオロオロしちゃうんだ。で、そのオロオロぶりが周囲に「適当男」っぽく見えてるってだけなんじゃないかな。そんな気がする。

Yahoo!ニュースから引用

と、解釈されています。

高田純次の若い頃の壮絶な生い立ち!

高田純次

文春オンラインから引用

学生時代にはたくさんの苦労を重ね、ブレイクするまで時間のかかった高田純次さんですが、幼少期にも厳しい時を過ごされた時期があったのをご存じでしょうか?

「東京都北多摩郡調布町大字国領(現:調布市国領町)」出身である高田純次さんは、父親が東京ガスに勤務する真面目なサラリーマンの元に産まれましたが、4歳のときに母親が32歳という若さで病没されます

そのため、高田純次さんはお母さんのことをよく覚えていないそうです。

その後、父親は再婚し、新しいお母さんと腹違いの兄弟が誕生しました。

しかし、一緒に住んでいた高田さんのおばあちゃんと継母の折り合いがとても悪く、しょっちゅう喧嘩をしていたそうで、まだ幼かった高田さんが板挟み状態になるなど、常に2人の顔色を窺っていたそうです。

また、2人のけんかの際、父親は継母の味方をするため、高田さんはおばあちゃんに寄り添うようになったのだとか。

継母と父親が兄弟を連れて外出する際も、高田さんは一人取り残されるおばあちゃんの事を思い、一緒に自宅へ残っていたそうです。

それでも、高田さんと継母の関係が悪かったわけではなく、「継母に気を遣わせたらいけないと、ある程度距離を置いていた」そうで、新しいお母さんにも気を遣っていたのでしょうね。

それでも、小・中学校と、成績は常に優秀で、「神童」と呼ばれていたそうですから、地頭がとても良いのは幼少期からあったのでしょう。

高田純次は若い頃も今もかっこいい【画像】

では最後に、高田純次さんの若いころと今の写真を見ていきたいと思います!

↓高校時代の高田純次さん。学ラン姿が凛々しい。

高田純次
引用:芸能人の息子まとめ

東京デザイナー学院 2年生の高田さん↓

高田純次
引用:ポパイ

サラリーマン時代の高田さん↓

スポニチから引用

東京乾電池時代の高田さん↓

高田純次

grapeから引用

天才・たけしの元気が出るテレビ!で兵頭ゆきさんと歌手デビューする高田純次さん↓

高田純次と兵頭ゆきのCHANCE心ときめいて!
高田純次の歌
引用:レコードシティ・TAMATEBAKOさんYoutube

グロンサンのCMに出演していた時の高田さん↓

高田純次のCM
引用:himさん X

じゅん散歩の高田さん↓

高田純次

デイリー新潮から引用

まとめ|高田純次の若い頃からの苦労の経歴は?適当男キャラと思えぬ壮絶な生い立ち!

今回は、高田純次さんの若いころからの苦労されてきた経歴や、どうして適当男と呼ばれるようになったのかなどを紹介してきました。

結果
  • 高田純次は若いころは第一志望の高校に行けず、大学も10校以上も落ちた経験を持ち、その後宝石店でサラリーマン時代もあったが、芝居の道へ行き、アルバイトをしながら妻子を養っていた
  • テレビに出演することができたのは、「笑ってる場合ですよ!」に出演し始めたときから、ちょっとずつ知名度が上がっていった
  • 適当男と呼ばれ始めたのは60代ごろと仰っているが、本人が言い出したわけではない

以上の内容を中心に紹介してきました。

テキトー男として、唯一無二の存在としてテレビに出演されている高田純次さんですが、学生時代はとても苦労された様子がうかがえ、芝居の道に進んだが、サラリーマンとなって妻子を養うなど、とてもしっかりとした考えを持たれて行動されていることが分かりました。

最終的に芝居の道に進み、徐々にテレビ出演も増え、一気に有名となった「天才・たけしの元気が出るテレビ!」でハチャメチャなリポーター役となり、CMで「5時から男」というフレーズが付くなど、まさに唯一無二のキャラクターとして現在も活躍されています。

御年77歳ということで、健康には気を付けていただきたいですが、これからも元気にテレビで適当発言を聞かせてもらいたいですね。

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